音楽の歴史は非常に長いらしく、5000年前の古代エジプトでもフルートやハープやクラリネットといった楽器で、宴会や祭祀時にバッハやメンデルスゾーンといった高貴な曲を演奏していたらしい。ピラミッド着工の際は、景気付けのために高田総統がフンドシで和太鼓を叩きに行っていたという絵が、先日早稲田隊により発見されたクフ王の墓の壁画にあったという。
しかし何千年前から音楽というものがある上に、今では世界中で1日1曲以上は必ず新しい曲が作られている。多分日本だけでも毎日新譜CDが発売されているのではないか? 自主制作CDとか趣味での作曲などを合わせたら、国内だけでも1日何十曲何百曲という新しい音楽が生まれているに違いない。
ところが音楽というのは所詮ドレミファソラシドの組み合わせではないか。シャープとかフラットとかクレッシェンドとか鯛とかスラーとか(スリラーじゃないよ。スリラーはこっちだよ)で幅は広がると思うが、しかし無茶苦茶に音符を並べても聞くに堪えない物になるわけで、ちゃんと心地よいメロディーになる組み合わせというのは限られている。更に5000年の間に何億曲という音楽が作られているはずで、もう今の時代に曲を作っても、絶対に過去のどこかの時点で作られたどこかの国の音楽とかぶってしまうのではないか??? いつ誰がどこで新曲を作っても、少なくともいくつかの部分は盗作ということになってしまうのではないだろうか??
旅先で流れる音楽を聴く時にふとこのことが思い浮かんで、それからは何かしら日常生活のうえで曲というものが耳に入ると3回に1回はこの件について頭を悩ませてしまう。何度かドレミファソラシドの組み合わせで何通りくらいのものが出来るか計算しようとしたくらいだ。面倒くさくてやめたけど。
実際、小林亜星の曲と服部克久の記念樹が似てるということでややこしい騒ぎになっていたし、日本の「きらきら星」の曲とアメリカの「エービーシーディーイーエフジ~~」という曲はメロディーが全く同じになっているではないか!!!! もう音符の組み合わせに限りがある以上は、このような偶然の一致は避けられないことなのである。だから嘉門達夫も張り切って曲を組み合わせるのだ。
そして、同じようにオレが「そろそろ組み合わせの限界が来るのではないか」と深刻に心配しているのが、日本語の文章についてである。
古事記や万葉集の時代から、1400年以上に渡って日本語の文章というのは発表されてきた。現代では本に雑誌に毎日の新聞、ここ5年ほどではホームページにブログにmixiの日記、2chの書き込みなんてものまである。これは新曲などの比ではなく、「。」がつくまでの1行の文で数えていくと1日で何億行、何百億行と書かれているのではないか。そして、公に文章を発表する立場の人は、たとえどんな辺鄙な個人のブログの文章と1行だけの一致であろうと、ブログの方が早くアップされていたら「盗作」と騒がれる運命にあるのである。これは公の場で物を書く人にとっては大変な事態なのではないだろうか。所詮数の限りある日本語を組み合わせたわけで確率的にも同じ文を書いてしまうことは絶対にあるはず、もちろん音楽も同じ、過去にできた物と一致してしまうと盗作になってしまうのだ!!
平安時代の人などはどんな文章を書こうとオリジナルであったはずで、年々新しい文学が登場し本が出て新聞が出て、時代が後になればなるほどオリジナルの日本語の組み合わせというのは限られてきてしまう。特に今のネット社会、web上も含めてどこにも書かれていない新しい文章などもうほとんど残されていないのではないだろうか?? そうすると、もうあと3年くらいで何を書いても盗作になる時代がやって来て、全ての物書きの人々は職を失ってしまうのではないだろうか??
実際に杉村太蔵もどこかのブログの文章をパクったということで問題になったし、安倍なつみさんの書いた詩も偶然あちこちの同業者のプロの文章と一致してしまっている。と思って今検索してみたら、安倍さんもオレと同じことを言っているではないか!! やっぱり限りある言葉なんだから、偶然の一致は免れないことなのである!! ほら、偶然、あくまでも単なる偶然でこんなにたくさん同じ組み合わせが出来てしまっている!!!
そうすると、もうこれからはオリジナル文章などどこを探しても無くなってしまい、人は過去に発売された本や一般の人の書く個人的なブログを読むしか文章に触れる場が無くなってしまうのではないか。こうなったら、そうなる前に残された数少ないオリジナルの日本語の組み合わせを自分が使いまくるしかないのだ。誰かに書かれる前に一刻も早く!! ちんたらしていたら、どんな言葉を綴っても誰かの二番煎じになり、安倍さんのように晒されて謹慎するハメになるのである。
ああ、でもせめてオレが生きている間はまだいくらか組み合わせが残されていて欲しいなあ。……でも、きっと「ああ、でもせめてオレが生きている間はまだいくらか組み合わせが残されていて欲しいなあ。」という文章すら、いつかどこかで誰かがすでに書いているのではないかと思う。ああ、きっと『……でも、きっと「ああ、でもせめてオレが生きている間はまだいくらか組み合わせが残されていて欲しいなあ。」という文章すら、いつかどこかで誰かがすでに書いているのではないかと思う。』という文章もまた、過去に誰かに書かれてるんじゃないかな……。
まあ文字というのは後に残るけど、音楽はそうでもないからうらやましい。もし数千年前に生きた古代文明の音楽家たちが現代に生き返ったら、「それオレが豊作を祝うために作った曲にそっくりだ!!」とか言われて今の作曲家は片っ端から訴えられることだろう。
マイヤハッハー!!