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銘菓いたらき

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 新宿の京王デパートに行って、初めて銘菓いたらきを買ってきました。

 おぼっちゃまくんが食べていた「いたらき」をある日どうしても食べたくなり、いったいあれはどこに売っているのか? と調べたところ意外にも新宿のデパートに売っていました。このお菓子が元ネタなのだそうです。果たしてそのお味は!?→

 お味:甘かったです。脳が活性化されて眠くなりました。これから寝ようかどうしようか迷っています。

 ちなみにいたらきは本当の名前は「いただき」です。鶴屋八幡の銘菓いただき。
 思い出してみると、おぼっちゃまくんの中で「いたらき」を茶魔に渡すのはいたらきんちゃんでした。
 ということは、京王デパートで「銘菓いただき」を売っているのはもちろん! いただきんちゃんです。売り場のおねえさんがつまりいただきんちゃんなのです。みなさんもいただきを買いに行く際にはおねえさんに「いただきんちゃん、これください!」と話しかけましょう。

 ああいうデパートのお菓子売り場というのは、お菓子売り場なのにもかかわらずケースの中の商品を見ていると売り場の人が話しかけてきますよね。さながらアパレル業界かのようです。人見知りの私としましては、話しかけられるのが怖くてデパートのお菓子売り場のガラスケースの中を見つめることができません。本当は興味があるのに、話しかけられたらどうしようと思うばかりに「男子たるもの甘くてほっぺたが落ちそうな和菓子洋菓子なんていうものに気を取られるなどもってのほかでござる」という雰囲気を醸し出して名店の前を素通りするのです(涙)。

 さて突然話は変わりますが最近読んだ三国志の本がこちらです。
 なんと三国志業界では知らぬ者はいないという渡邉義浩先生から本を送っていただきました。詳しく知りたい方はamazonへGO↓ 左クリックを押してください。マウスの左クリックを画像の上で…………。
 

 渡邊先生はレッドクリフや、現在フジテレビにて放映中の中国ドラマ「三国志」の監修もされている、三国志業界では知らぬ者はいないという先生です。
 三国志業界では知らぬ者はいないと何回も言っておきながら、三国志業界というのがいったいどこからどこまでの業界なのか自分でもよくわかりませんが。おそらく三国志業界は底辺がさくら剛著の「三国志男」、頂上が映画「レッドクリフ」や吉川英治および横山光輝さんの「三国志」、そこまで下から上までが三国志業界であり、不思議なことに渡邊先生は頂上のあたりの人からも一目置かれる立場でありながら、時に底辺である三国志男ことさくら剛とも絡むという幅広いお方です。
 なにしろ、フジテレビのドラマ三国志の試写会では、ステージ上で渡邊先生とさくら剛の異世界対談が行われたというくらいです。頂上と底辺。この2人が交わるようなことがあればひょっとすると三国志業界の時空が歪んでしまい、人類はふたたび三国時代に突入するのではないかと業界内では心配されていたほどです。
 昨年、スイスにある大型加速器(LHC)の実験で、もしかするとブラックホールが発生してしまい地球が消滅するのではないかという問題が指摘されていましたが、そのLHCの実験と「渡邊教授がさくら剛と絡むせいで世界は三国時代になる」という心配が、2010年の地球上の2大心配ごとだったのです。

 なお、この渡邊先生の力著作「三国志」を読むときにこの僕がいったいどんな格好で読んだかというと、ネット通販赤兎馬さんで購入した「蜀の三兄弟Tシャツ」を着て読みました。 
 赤兎馬さんのことは3年くらい前に三国志つながりで知ったのですが、それ以来、ふつうのアパレルのお店には店員さんが声をかけてくるのが怖くて入れない僕は赤兎馬さんのTシャツばかりネット通販で購入しほぼ毎日着ています。
 というようにブログにいろんな商品のことを書いていると、「なに、おまえ本ももらってTシャツももらって、もらったものを順番にブログに書いていってそうすれば他にもブログで宣伝してもらうためにいろんな人がいろんなものをくれることを期待してるんだな!!」とお思いの方もいるやもしれませんが、アイドルでもあるまいし世間はそう甘くはありません。わかっています、そんなことは。そうそううまいものではありません。
 しかしもし、「我が社の最新型のパソコンでブログの更新のしやすさをぜひ試して欲しい」とか、「我が社のクルーザーの乗り心地についてさくら剛の感想を知りたい」とか、「我が社の新築マンションの住み心地をさくら剛に毎年レビューして欲しい」とか、そのような企業様からのご要望がある場合には、そこまで貴重なものをいただけるのであれば、私も重い腰を浮かして前向きに検討したいと思います。
 とはいえ世間は決して甘いものではないので、そういう高価なものをいただいたとしても、僕が簡単にブログに書くとは限りませんけど。そのあたりは僕も甘くないので期待をしすぎることはやめてください。甘くないんですよ世間は。
 とはいえ、やってみなければ結果はわかりません。当たって砕けろではないですか。ダメ元で、とりあえず新車や権利書などさくら剛に送るだけ送ってみたらいいと思います。チャレンジする人は、僕は応援したいんです。その時に「銘菓いただき」の箱をくりぬいて日本銀行発行の紙幣をなん束か添えてもらえれば、僕の心が動く確率は増えるのではないかと思います。
 といいながらも、蜀の三兄弟Tシャツも別にいただいたわけではなくうちのパソコンからネット通販でクレジットカードを入力してごく普通に購入して着てるんですけど。この3年くらいはもはや三国志Tシャツしか着れない体になってしまいました。ぼく、がんばる。
これがここ1週間くらい毎日着ている蜀の三兄弟Tシャツ

 ちなみにクルーザーとか1億円をくれればブログで宣伝するうんぬんは全て冗談ですので、本当にそういうものを送ろうとするのはおやめください。いや、やめないでください。

お暑うございますね

 みなさま、ごきげんいかがでしょうか? これを読んでいる全ての方が幸せに暮らせるよう願っております。

 私はといえば、今年の夏あたりに向けて書いていた本の原稿がいったんひと段落し、ある程度余裕を持った生活ができるようになりました。

 しばらくしたら、また原稿の校正シーズンが始まりあわただしくなります。しかし紙不足で発売中止になる雑誌や単行本もあるなか、無事に出版してもらえるだけでもありがたいことであり、喜んであわただしくなろうと思います。

 でも、発売直前になって紙とインクが無いから出せないなんてことになったら、私は悲しみます。そして、職業安定所にお仕事を探しに行きます。

原発に反対する理由

 最近原発に関する議論が非常に活発だ。多くの人が感情的になって反対意見の人と戦っている。
 物理の本を書いている身としては、この議論は気にせずにはいられない。

 私は原発には反対で賛成だ。賛成で反対だ。

 結局、賛成と反対で議論しているように見えるけど、おおもとのところでは、無きゃ無い方がいいんだろうなという意見はほぼ全員一致しているのではないか。直接的に利益のある、プラントを作る建設会社の社長さんとか稀に全面賛成の人もいるかもしれないが、そういう利害関係の無い人は、原発は無いなら無い方がいいで意見は一致していると思う。

 問題はその先だ。
 無きゃ無い方がいい、反対!とひたすら主張し続けるか、でも現状では無ければどうしようもないんだよなと思うか、それで2つに意見が割れているのだと思う。
 ここ最近の傾向では、「とにかく反対だ」という人の方が多いような気がする。Twitterを見ていると特にそう感じる。むしろ世界中で反原発のデモが起きているし、今は「とにかく反対」派が圧倒的多数なのではないか。

 ところが自分は完全な反対派にはなりきれずにいる。世界の流れから取り残された気分だ。
 どうして取り残されてしまったかというと、「これだから反対!」と自信を持って言える理由が探せないからだ。かといって賛成するかというと、無くて済むのなら無い方がいいはずだから、反対をしたいのだ。でもそこが難しい。

 ひとつずつ考えてみた。

 そもそも、とにかく原発に反対している方の反対理由というのは、「危ないから」というものが一番ではないだろうか? 放射線をたくさん浴びたら死んだりするから、危ない。そんな危ないものを作ったり使い続けるのはダメだよ!ということだ。むしろこれ以外の理由はあまり無いと思う。
 ところが、どうもそこで引っかかってしまう。
 だって、包丁の方が危なくないかい? ナイフなり包丁なりで、世界中で毎年何万人という人が殺されているはずだ。でも、包丁の製造や使用に反対する人はいない。たまに飛行機が落ちるからといって、飛行機なんていう危ないものはすぐに廃止しろ! とは言わない。自動車だって同じだ。
 今回沿岸部で多くの方が津波の被害を受けたが、きっと時が経てば町は復興するだろう。「沿岸部なんて危ないところに住むなんてとんでもない!」という主張で「沿岸部居住反対デモ」は起こらない。
 原発は今回のように地震で損壊することがあるから危険だといっても、普通の家だって地震があれば崩れる。家が崩れて亡くなっている人はすごく多いのに、家を作るのに反対する人はいない。
 包丁も交通事故も他の例も、原発事故の何千倍何万倍という数の犠牲者を出している。原発では年間何万人どころか原発の歴史を長く辿っても亡くなっている人は数えるくらいしかいないはずだ。それならば、原発のどこが危ないのか? 包丁や自動車の存在と比べたら全然危なくないんじゃないか??

 ……と、つい思ってしまう。
 しかし私は物事の奥深くまで考えられない未熟な人間なので、本当はこの考えは間違っていてもっと莫大な危険が原発には隠されているのかもしれない。そういうものがあるのならば、勉強して知らなければと思う。
 
 
 次に、放射性物質、の廃棄物は何万年も管理し続けなければならず、子孫にまでそれを強要するのは我々の身勝手であるという意見がある。
 でも、原発を廃止したら、現実的には今以上に火力発電に頼ることになると思う。というより、日本でも休止している火力発電所を再開するというし、他の国でも原発をやめて当分は火力で、とうい流れに今現在実際になっているようだ。
 火力に頼り続けたら、資源が無くなってしまうではないか。石油が無かったら現代人の生活というのは成り立たない。石油が無くなったら火力発電ができなくなるのはもちろん、車も走らないし暖房も使えないしプラスチックもビニールもペットボトルも使えないし非常用発電機も使えないし、じゃあ燃料を使わない電気自動車にしたりオール電化の家にすればいいじゃないかといっても、そもそも火力発電が使えず原発はダメだとしたら電気を作ること自体ができない。
 というように、石油が無くなったら困る。
 でも、火力に頼るというのは、つまり石油を使い果たそうとしているということだ。あと100年は持つようだが、しかしそれでもこの調子で使い続ければ無くなるのはもうすぐだと言っていい期間だと思う。たった100年なんて。200年でも300年でもさほど変わらない。
 放射性物質は何万年か経てば消えるけど、石油などの資源が無くなったら何万年どころか地球が消滅する50億年後までずっと無いのだ。まあちょっとずつなら石油は生物の死体などからできていくけれど。そんな量は焼け石に水だ。
 火力発電をばんばん使って限りある資源を自分たちの代で使い果たそうとするのは、放射性物質を残すよりずっと身勝手なことではないだろうか? しっかり管理すれば放射線が漏れないのなら、しっかり管理していけばいいのではないか。もし私が200年後の人だったら、「放射性物質くらい残してもいいけど石油は使い切らないでくれよ!!」という気持ちになると思う。
 しかも火力発電は二酸化炭素までも大量に出すし。

 ……というふうにも思うのだが、しかしこれも自分が勉強不足であるということは否めないので、妥当なことを言っているかどうかはわからない。もしかしたら実は石油は永久に無くならないのかもしれないし、二酸化炭素なんてどれだけ出ても環境は悪くならないのかもしれない。それならずっと火力でもいいかもしれない。
 
 
 また別の意見としては、とにかく核がイヤだ! 日本は核兵器を落とされた国なのに、その核で発電をするなんてとんでもない! というものがある。これはどちらかというと物理的な被害の話ではなく、気持ちの問題だ。
 だからといって、別に気持ちの問題を軽んじようとしているわけではない。病は気からというのは真実であるし、時として物理的被害と同じくらい気持ちの問題は重要だ。
 しかし、これも引っかかってしまう。
 ひとつ目の引っかかりと同じだ。料理をしている主婦に向かって、「我々人間は包丁を持った連続殺人鬼の恐ろしさを知っているはずなのにおまえはまだ包丁なんかで料理をしているのか!!」と責める人はいないのではないか。「これだけ交通事故で人が死んでいるのに車で移動するなんて不謹慎だ!!」と怒る人はいない。
 はっきり言って、そのものを悪用したことにより犠牲になった人がいるということと、そのもの自体が良い悪いという議論は、まったく関係ないことではないか? 火薬は悪の存在なのか? こんにゃくゼリーは悪の存在なのか?(ゼリーは悪用はされてないけど)
 原子力の発電が不謹慎ならば、火力はどうだろう。毎年火事で大勢の人が亡くなっているし、江戸の大火を経験している日本人が火力発電に頼るなんて不謹慎じゃないだろうか。ましてや、これほどまでの津波の悲劇を体験した今、水力発電や潮力発電がいいとは口が裂けても言えないはずだ。
 太陽光発電も同じだ。太陽は燃えているのではなく、核融合でエネルギーを作っている。紛れもなく核エネルギーだ。核エネルギーが光のエネルギーになって地球に届いているだけ。なので核エネルギーを熱エネルギーに変えている原子力発電と不謹慎さは変わらない。核がイヤなら、太陽光発電にも反対しないとダメだ。だから、「日本は原爆の被害を受けたのだから」というような、不謹慎的な理由で原発に反対するなら、他の全ての発電所にも反対しなければならない。

 ……なんていうことも、思ってしまう。
 
 
 他の理由としては、原発は下請け業者によりずさんな工事が行われているから危ないんだということも言われているようだが、それならずさんな工事を行わなければいいだけの話じゃないかい。耐震偽装や欠陥住宅の問題が目立つからといって、じゃあ家を建てることをやめよう、という発想にはならないわけだし。

 ひどい意見になると、原発は作ったエネルギーの何割かを海水の温度を上げるために無駄に使っているとか、せっかく作ったエネルギーの何割かは送電線を通っているうちに熱として放電されてしまうので無駄が多いとか、そんな理由で反対されていることもあるが、海水に関しては火力発電所も発電の仕組みは同じなので100%同様のロスが起きるし、送電線なんて電線の問題なんだからこれは全種類の発電所で同じだ。こんな理由で原発に反対するというのは、「こういう理由があるから反対」なのではなく、「とりあえずなんとなく原発に反対したい」という動機がまずあって、原子力発電と火力発電の発電の仕組みの違いすら知らないのに無理矢理「なにか反対のうまい理由はないかな」と理由を探してきているからこうなるのだ。
 
 
 
 というように考えてみると、はっきり「この理由があるから原発なんて絶対反対!!」と言い切れるものが無い。どうしてだ。これでは原発反対を叫べない。

 なにしろ、天然資源を子孫のために残しておこうと考えるなら、なおかつ電気を使うこともやめずに、毎日計画停電が起きるのもイヤなら、安全に原発を使っていくしか道は残されていないんじゃないかと思ってしまうのだけど。これはよくない考え方なのだろうか。原発反対運動のせいで新しい原発が建てられず、仕方なく40年前に作った原発を期間を延長して使い続けて今回の事故が起きたなんていう記事(どこまで本当かはわからないけれど)を読むと、原発反対という意見が完全に本末転倒な結果に繋がってしまっていると感じる。この記事はあんまり真実味が無いのかな……

 もちろん退避勧告が出されている地域の方や、農作物が出荷できなくなってしまった農家の方、そういう方たちは間違いなく原発の被害者だと思う。こんなことは絶対に起きてはいけないし、起きてしまったならば電気を使っている日本人全員で負担して被害にあわれた方の生活の保証をするべきだと思う。特定の人たちだけがリスクを負担することになってはいけない。
 そこを踏まえても、無くて済めば無い方がいいのは確かだし、無い方がいいと思っているからには自分は原発反対派であるはずだと思うのだけど、それでも計画停電で病院や信号の電気が止まって人的被害が出たり、あるいは冷蔵庫の中身が腐ったり近所のお店が停電時間にことごとく閉まったり犯罪が増えたりテレビが見られなかったり暗かったりするのがイヤで、そして今のままのGDPを保って世界的に見れば水準の高い生活をしてディズニーランドにも行きたいならば、無い方がいいけどでも原発を止めるわけにはいかないだろうと思ってしまう。のだけれどみなさんはどう思われるでしょうか。

 これから一生1日のうち4,5時間は電気なんて無くてもいいという覚悟が本当にある人や(でもこの短期間の計画停電で既に死者が出ているのだから、停電が続く方が原発よりよっぽど危ないと思う)、石油が無くなってもそんなの自分が死んだ後のことだから知ったこっちゃないと開き直れる人や、エネルギー問題に本格的に詳しくて「これなら原発の代わりになる!」と数的根拠まで持って代替案を述べられる人ならどんどん反対すべきだと思うしその意見を聞いたら私も「なるほど!!」と納得して、引っかかるものは何も無いと思う。そもそもその代替案こそがみんなが求めているものだし。それが欲しい!
 しかし、そうでない場合は……、例えば3月下旬のちょうど計画停電が始まったばかりの頃、都内で反原発のデモが行われたそうだ。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0322&f=national_0322_014.shtml
 ここに、「警官100人を動員」と書いてある。
 まだ震災から10日ほど。計画停電であちこち混乱するだろう。停電に乗じて犯罪が起こるかもしれない。そんな時にデモを企画して警官を100人も使うというその無神経さ。とりあえず危ないっぽいから自分は原発がイヤでデモをするよ、ということでこの時期に警官100人を動員することの意味を全く考えない、そういう短絡的な気持ちで行動する人たちは水力発電のためにダムを作るといってもとりあえず「自然を壊すな」と反対するだろうし、じゃあ計画停電するよといったら東京電力にクレームの電話をするだろうし、ディズニーランドが再開しなければブーブー言うだろうし、太陽光発電はコストがべらぼうにかかるから電気代が5倍になるよと言われたらそれはそれで「値上げ反対!」のデモを行うでしょう。
(太陽光発電はコストが原発の10倍と言われており、友人が家につけたソーラーパネルも家1軒分で500万ほどしたそうです。しかしこれも実は太陽光発電と原発のコストはたいして変わらないと言っている人もいて、本当のところはどうなのか謎です)
 
 
 ちなみに、太陽光発電のコストのこともそうだけど、原発の議論がTwitterでなされている時にはみんな「ここにこう書いてあるじゃないか!」と参考サイトを提示しあって戦っている。
 でも、反対派の意見も賛成派(?)の意見も、両方の後押しをする参考サイトが必ずある。人は正しいものを信じるのではなく、信じたいものを信じるものなので、どちらの意見の人も自分の意見を後押しする参考サイトを必ず見つけてくる。
 たとえば波を使った発電で十分日本の発電量がまかなえるという資料が掲載されているサイトもあれば、どう考えても原子力が無ければ2割以上電気が足りなくなるという資料が掲載されているサイトもある。そして、どちらも信じたい立場になれば正しく見える。
 しかし、どこかの見知らぬ誰かが書いたサイトなんてアテにならない。専門家の書いたサイトすらアテにならない。○○大学教授だとしても、たとえ東京大学教授だとしても、「東大の教授は東京電力から金もらってるから信じちゃダメだ!」などと言われている始末だ。政府も「情報を隠している」と言われている。そのへんのネット上の人が「政府は情報を隠している!」と言っているのだからすごい。その人は日本政府より上の情報網を持っているわけだ。

 というわけでここまで書いておいて今さらだけど、結局知識の無い我々が、「正確かどうかはわからないけど自分の信じたい参考意見」を信じてそれを元に賛成だ反対だと議論をするのは、時間の無駄だと思う……。それならその時間にきっちり本でも読んで勉強して、1年後くらいに専門家なみの知識を身につけてから改めて論争するのがいいんじゃないだろうか。知識なくして賛成なし。知識なくして反対なし。
 終わります。

さよならカラムーチョ

 春は別れの季節ですね。

 私はこの度、30年来の付き合いである友と、関係を絶つ決心をしました。その相手とは、誰あろうカラムーチョです。

 カラムーチョといえばスティック型ですね。私の中でカラムーチョといったら、スティックタイプの王道のカラムーチョを指すのです。以前は140g入っていましたが、時代の移り変わりと共に今では112gほどの内容量となっています。

 しかし、年齢というのは残酷です。私が歳を重ねるごとに、私とカラムーチョの関係には溝ができ、その溝はいつしか修復不能な亀裂にまで発展してしまっていたようです。

 以前、南米から帰国時にみなさんからたくさんのカラムーチョをいただきまして、カラムーチョとポテトチップの海の中で私はそれはそれは気持ちよく泳いでいました。スナック菓子の大海原。おいしそうな地域の名産品などもいただいたようですが、それはメディアファクトリーの編集者に食われました。

 毎日の主食が、カラムーチョでした。南米での旅を終え、私はカラムーチョとの親密さも前以上に増したのです。こうして帰国後にたくさんふれあっているからというだけでなく、旅の途中でも私とカラムーチョの仲はただならぬものに発展したのです。なにしろ、子供のころからなにげなく呼んでいた「カラムーチョ」という名前、その由来が出会いから30年近く経ってようやくわかったのですから。

 「ムーチョ」というのは「mucho」であり、スペイン語で「たくさん」という意味なのです。中南米の旅の最中にふと、カラムーチョというのは日本語の「辛い」とスペイン語の「ムーチョ=たくさん」の組み合わせだということに気付いた時、その時が旅の中の高揚感のピーク。カラムーチョというのは、たくさん辛いという意味の造語なんだ。日本と南米の合作なんだ。このことを知れたというだけでも南米に来た甲斐があった。 
 モアイやガラパゴスやマチュピチュを見るよりも、カラムーチョの名前の謎を解けたということが旅の一番の成果でした。

 ところが話は飛びまして、3月末の発熱です。

 いろいろな要素が重なり高熱を出して寝込んでしまったのですが、その最終的な引き金となったのが、なにあろうカラムーチョだったのです。カラムーチョを食べたことにより、私は熱を出してしまったのです。

 なんとなく旅の後カラムーチョの海で泳いでいた頃から違和感は感じていました。悦楽に浸りながらも、なんだかカラムーチョを食べると体がおかしくなるのです。これはすなわち、年齢とともに自分の胃腸が全盛期のパワーを失ってきているということでありましょう。わずか7歳の頃、三方原のお店で初めてカラムーチョと対面してからずっと、スティックタイプのノーマルカラムーチョをひとふくろまるごと食べても全く体には影響がなく、平気へっちゃらな顔して野原を駆け回っていた少年でした、この私は。

 でも今は違います。顕著に溝を感じるようになったのはここ半年ほどでしょうか。たまにカラムーチョをひとふくろ食べると、すごい勢いで体調を崩すのです。まずいつものごとくお腹を壊すのですが、お腹を壊すと脱水症状にもなるし体がだるくなり、首や肩の痛みも増します。どうしたのでしょう。昔の私ではないし、昔のカラムーチョでもない。私たちはもう昔の関係ではない。そういう変化を感じるようになってから、カラムーチョは控えるようにしていました。距離を置くようにしたのです。

 とはいえこちらが避けているつもりでも、予期せぬところでご対面してしまうと、たとえばスナック菓子のコーナーには近づかないように気をつけていても、特売品コーナーなんかで思わずカラムーチョとばったり出くわしてしまえば、流れるヨダレを止めることはできずに買い物カゴに受け入れカラムーチョなのです。

 3月末は、いろいろ重なって微妙に体調を崩していたのです。すでに危なかった。なにかおかしいなあ、これは体調が危ないなあ、とうすうす気付いていた。そうだった。そんな時なのに、健康な時だとしてもお腹を壊してしまうカラムーチョをそんなうすうす気付いていた微妙なタイミングでひとふくろ深夜に平らげてしまったのです。

 そうしたら一気に高熱と腹痛といろんなものに一斉にやられて寝込みました。そして、気力で次の日くらいに復活したつもりになって、カキフライを買って来てソースとマヨネーズを山のようにかけてご飯と一緒に食べまくったら、胃が痛くて気持ち悪くてたまらなくなって、もうたまらんって感じで、しばらく果物しか食べられなくなりました。

 ことここに至っては、カラムーチョと決別するしか無いという結論に至ったのです。

 カラムーチョをひとふくろ食べる度に寝込んでいては、人生がはかどりません。かといって、全部じゃなくて半分だけ食べるとかそういうことはできない人間なんです。そんな中途半端な男じゃないんです。やるならば徹底的にやる。やらないならやらない。やると決めたら、とことんやる。途中でやめない。私はそういう生き方をすると決めているのです。そんな私がカラムーチョを半分だけ食べて残りはまた明日食べましょうなんていう女々しいことができますか。

 その代わりにおっとっとを買って食べたりしていましたが、おっとっとはすぐ飽きました。今はイチゴにはまっています。あまおうって高いんですね。あまおうはイチゴファンにとっての贅沢。今日もイチゴを買いに行かないと。

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