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奈良鹿





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 ご覧の通り奈良に行って来ました!

 なにしろ旅が嫌いなもので、なんと今回が生まれて初めての国内1人旅という……。本当は京都にも行こうと思ったのですが、えらい時間がかかりそうだったので、今回は奈良だけってことに。神戸にイベント参加のために行ったついでに観光をして来たのですよ。

 で、上の写真の通り、奈良といえば鹿ですね。上の写真の坊主は鹿でありながら人間に近い坊主ですけどね。毛も生えてません。下の鹿は毛が生えてます。体中毛だらけといった具合です。


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 ハ~イ! 奈良といえば鹿だよね。でも鹿と遊ぶことが観光のメイン目的だったけど、予想だにしなかった鹿の凶暴ぶりで、恐怖すらおぼえたんだ。
 特に鹿せんべい初回購入時は、鹿の恐ろしさをわかっていなくてひどい目にあったよ。なにしろ左手の人差し指を噛まれて流血してしまった。

 なぜ鹿が噛むかという点だが、彼らはせんべいを食べようと思って間違って指を噛んでしまったというわけではない。それなら悪気があって噛んだわけではなく、殺意は無かったということで彼らを責めるわけにはいかない。それなら鹿を許すよ僕は。でも、そうじゃなくて、やつらは「早くせんべいをよこせよっ!!!」という意思表示で我々を嚙みやがるのだ。これは完全な犯罪である。春日大社の参道で、全国各地からいらしたみなさんが見ている前でオレの左手の人差し指は激しく噛まれたのだ。

 せんべいを持っていると鹿はあちこちそちこちからわんさか寄って来て、体のいたるところを噛まれる。シャツを噛んで引っ張ってくるのだが、シャツを引っ張る時に腹の肉が一緒につままれて噛まれることが何度もあり、これが痛~~い(涙)。そして後ろに回った牡鹿は尻に向かって突進型の頭突きをしてくる。鹿と戯れる幻想を持ち鹿せんべいを買ってしまった旅行者は、みなすぐに鹿に囲まれて鹿攻撃をくらいせんべいを地面に放り出して逃げるのだ。
 でも噛まれてわかった。草食動物の歯というものが。日頃なかなか草食動物に噛まれる機会というのは無いので、ある意味得をしたと思う。噛まれてわかったのだが、鹿の歯は平らだった。平らな歯で、上の歯と下の歯をすりすりこすり合わせて葉っぱをすりつぶすような構造なのだ。実際オレの人差し指はそのように、上の歯と下の歯でゴリゴリ左右にこすられた。これが肉食動物だったら食いちぎられるところだけど、草食動物で助かった。なにしろオレの指は草ではなく肉だから。指は肉なので、草食動物である鹿の食料ではないのだ。だから食べられずに済んでよかった。






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 それにしても、既に鹿せんべい屋の周囲は下の写真のように鹿が取り囲んでおり、せんべい購入者は逃げられない布陣となっている。それなのに鹿せんべい屋自体は不思議と襲撃されないのだ。 せんべい屋の脇に待機していて、観光客がせんべいを購入した途端に彼らは襲い来るのである。
 というのは、おそらく鹿もせんべい屋を襲ってしまったらせんべい屋の商売が成り立たなくなり、結果的にせんべい屋は店じまい、そうなった時に困るのは鹿自身だということを鹿もわかっているのであろう。だからこそせんべい屋には手を出さないのである。全くこざかしい。






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 そしてこれが肉食動物。凶暴なので注意されたし

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 さて、奈良ではめぼしいところはだいたい回り……、法隆寺東大寺などお寺たくさん。
 国宝の仏像も数多く見たし、柿の葉寿司や串カツも食べたのだが、一番感銘を受けたのは、興福寺の阿修羅像だ。

 奈良の大仏よりも、高松塚古墳の壁画よりも、阿修羅像が最も印象に残っている。上野の博物館に阿修羅が来た時には2時間待ちの行列ができるほどの人気だったようだが、それがとてもよくわかる。
 あの阿修羅は、とても現代向きの存在だ。キン肉マンで植え付けられた激しいマッスルなイメージとは違い、体全体がとても華奢な造りをしている。6本の手も、女の子のようにか細い。ちょっと力が強めの女性が相手だったら、腕相撲をしても負けてしまいそうなくらい阿修羅は非力な体つきをしているのだ。
 その上、他の仏像たちとは全く雰囲気の違う、幼げでなにか困っているような表情で、これはもう現代人の顔。ところがそんな彼が、2本の腕だけはきっちりと胸の前で合わせ、奇麗な合掌をしている。

 この美しい姿勢がポイントだ。そもそも阿修羅というのは「修羅の道」という言葉があるように悪くて強~いイメージがある戦闘的な神様で、本来そのような姿で生まれるべきなのに、この興福寺の阿修羅くんは、童顔で迫力が無く、しかも鍛えても筋肉のつきにくい、華奢な体で誕生してしまったのである。
 普通なら、その容姿や内面をかんがみて、「自分じゃあちょっと阿修羅をやっていくのはムリだな」という判断で阿修羅をやめて学校の先生を目指したり、フリーライターになったりと自分の適性にあわせて進路を選択することだろう。少なくとも現代に生まれていればそのような道をたどったはずだ。
 ところが、彼はそれを許さない時代に生まれてしまったのだ。他の阿修羅とは違い、迫力も無い、力も無い。きっと魔力も少ないに違いない。しかし、そんなハンデを背負っても、彼は運命を受け入れて前へ進もうとしている。少し困った顔で、しかしその表情からはある種の決意のようなものも感じ取れる。唇をギュッと噛み締めて、細い胸の前に細い腕をしっかりと合掌させ、幾多の困難が待ち受けるであろう阿修羅道、戦闘の神様である自分の運命を背負い、運命に立ち向かっていこうという覚悟。非力でも、人々の先頭に立って戦いに向かおうという勇気。なぜなら、自分は阿修羅として生まれたのだから。
 その勇気と覚悟、のようなものがこの興福寺の阿修羅くんからは伝わって来る。それが、現代の人々の共感を呼び、心を打つのだと思う。
 やはり本当に強い者というのは、彼のように心の強い人間だと思う。いくら華奢な体でも、非力で童顔でも、前へ進もうとする者、覚悟をした人間は強いし魅力がある。それを私は奈良で、興福寺の阿修羅くんから教わったのである。

 ↓鹿を動画で撮りました






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