ある夜の話
最近は毎日、「今日こそは早く寝よう」と思っている。特に朝起きる瞬間は心からそう思う。朝起きたら毎日「今夜こそは早く寝るぞ」と決意する。しかし毎日決意しながらもう1ヶ月ぐらい経っている。朝はあんなに眠いのに、どうして夜になると目が冴えてしまうのだろうか。なんとか午前中のうちに起きて、日光のある時間帯に生活するというパターンを維持するのにこんなにも苦労するとは。
明らかにオレは会社員に向いていないのだ。特に早起きが必要なお寿司屋さんとか、朝の情報番組を担当する女子アナなんかには絶対になれないと思う。次に仕事を探すことになっても、女子アナだけは避けたい。めざましテレビなんかを担当することになったらすぐに体を壊してしまいそうだ。
逆に、ドラキュラなんかはすごく向いてるんじゃないかと思う。日光が嫌いだし。夜になったら飛び回って、美女の首筋に噛み付いて生活して行くなんて楽しそうじゃないか。かなり潔癖症だが、美女の首筋に限ってはたとえ汗をかいてシャワーを浴びていないとしても、噛みつくことが出来る。チューチュー吸うことだって出来る。これは天性のものなので、なんで出来るのかと聞かれても答えようがない。オレはドラキュラ向きの体質なんだと言うしかない。多分、引きこもりになっていなかったらドラキュラをやっていたと思う。それか、ドラキュラじゃなければ泥棒か。あとは、「カトパン」とか「ショーパン)みたいな深夜番組を担当する女子アナにだったらなってもいいと思う。
ところで、つい先日のことだが、その日もオレは「今日こそは早く寝よう」と思って、早めにパジャマに着替えて歯を磨いていた。夜の12時を少し過ぎたくらいだ。ぼけっとしながら歯を磨いていると、突然近所から「やめて、やめてっ!! キャーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーー !!!!!!!!!!!!!!!!!! キャーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーー !!!!!!!!!!!!!!!!!!」という、女性の絶叫が聞こえて来た。
こんな心からの叫び声をテレビ以外で聞いたのは初めてである。オレは歯を磨きながら固まった。これは、ゴキブリが出たとかそんな理由の悲鳴ではないと思う。なぜなら、普通ゴキブリ相手に「やめて!」とは叫ばないからだ。痴漢かひったくり、悪くするとレイプか殺人である。
背筋が寒くなり、これは110番をした方が良いのでは、と思ったが、通報をしている場合でもないような気がする。一刻を争うような事件が起こっているのではないだろうか。しかし……、出て行くのも、恐い!!! しかし恐いとか言ってる場合だろうか! と固まりながらオレは床に備えてある木刀を見た。オレは、とある事情により悪い奴がもし突然侵入してきても戦えるように、いつも布団の横に木刀を置いてあるのだ。わなわな……
とりあえず歯ブラシを口に入れたまましばらく葛藤していたが、さすがにいくらなんでも聞かなかったフリは出来ないだろう。バカ! オレの意気地なし!!! そんなオレだったら、もうオレなんていやだぞ!! と自分を励まし、ええいちくしょう! と立ち上がりささっと口をすすいで、わなわなと木刀を持ち、パジャマのままオレは外に出た。
ど、どこからの悲鳴だったんだろう。こんな時間で周りは真っ暗だし、近所はアパートだらけ、一人暮らしの人間だらけだ。悲鳴が聞こえたのは一度だけで、今はもうシーンとしている。例えば変質者に襲われたりしていて、逃げる音とか争う音とかが聞こえれば位置がわかるが、どこかのアパートの一室だとして、物音がしなければ探しようがないじゃないか。
だが、うら若き女性が下手をすれば怪我などして助けを待っているかもしれないのに、すんなり家に帰るわけにもいかない。オレはしばらく木刀を構えて心臓をバクバクさせながら路地を行ったり来たりしていた。
するとこんな時間ではあるが、さすがにあれだけの絶叫が驚いたからには、近所のアパートの上の方の階に住む人が部屋の前に出てきて通路から下の様子を伺ったり、あるいは窓を開けてなにごとかとキョロキョロ周りを見ているような人もいるのである。みんな気になっているようである。でも、こうして何人かがあちこちから見ているのに被害者が見つからないということは、やはり現場は路上ではなくどこかの部屋の中なのである。となるとこれは難しい……。
そこでオレはふと思った。今そのヘンに出て来た人からすれば、女性の叫び声が聞こえて様子を見に外に出てみれば、そこにはパジャマ姿で手に木刀を持ち路地を行ったり来たりしている男(オレ)がいるわけだ。これは……、警官が来たらオレが逮捕されるんじゃないか??
オレは慌てて木刀をパジャマのズボンに刺した。片足が入ってるところに木刀も一緒に入れ、それだけではおさまらないので刀の上半分にはパジャマの上着をかぶせた。それでやっと木刀は外から見えなくなったのだが、片足が曲がらないためめちゃめちゃ変な歩き方になった。ロボット風である。
家の近くまで戻って来ると、前の道路に体育座りで泣いている若い女性が出現していた。そのすぐ前では若い男が困った感じで立っている。で、ついでにおばさんが自転車で登場し、女性に靴を持ってきた。何が起こったのかは全くわからないが、多分この人たちは家族で、女性が何かをされそうになって叫んで靴も履かずに飛び出して、ここまで逃げて来てそれを彼氏もしくは兄弟と母親が追いかけて来たようだ。しばらく何か言い争っていたのを聞いてみると、女性が「お母さんが悪いんじゃん!!!!!」というように叫んでいたので、とりあえずこの事件はものすごい激しい家族喧嘩的なもので、犯罪ということではないらしい。夜中の12時過ぎにあんた……。
しばらくして彼らは家に帰っていったのだが、しかしまた繰り返し叫び声というか争う声がするのだ。夜中の近所に響く響く。さすがに誰かが通報したらしく、パトカーが来てその後は静かになっていた。
おかげでオレはその日もまた遅くまで寝られなかった。
次の日から「木刀を持った不審人物が夜中に目撃されたので注意して下さい」という危険情報が杉並区に流れたという噂は聞かないので良かった。