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ZARD続き

※写真のサイズをかなり大きくしたので、各画像をクリックしてみてください。

 坂井泉水さんの転落現場の写真を見てみると、やはり自殺ではなかったようだ。普通に立っている人間の頭のほんの少し上、3mも無い高さに手すりがある。およそ自殺しようとする人間が飛ぶ高さではない。むしろ、「このくらいの高さなら落ちてもたいしたことないだろう」と判断して手すりに腰掛けようと思える高さだ。多分、うまくバランスが取れなくて、後ろ向きに落ちてしまったのだろう。

 しかし実際にはもっと高いところから飛び降りたという話もあるし、よくわからない。ただなんとなくわかることは、いずれにせよ癌が転移していた坂井さんはそう長くはなかっただろうということだ。

 それでも、何故最初に癌が発見された時に一般に公開しなかったのかと、それだけが悔やまれる。なぜ彼女は密かに戦うことを選んだのだろうか。一方では彼女の死は正しく美しかったとも思い、しかしそれでもやはりあれ以来ZARDの曲を聴く度に「なんで死んじゃったんだよーーー!!!!」と悲しみに打ち震える自分がいる。時に、見ず知らずの人からの励ましというのは、家族や友人からの言葉よりもよっぽど勇気付けられることがあるのだ。

 今日仕事中に2chを見ていたところ(仕事中に2chを見てはいけません)、献花台の設置が今日の8時までだということが書いてあった。うーむ。

 帰宅するやいなや、オレはipodを引っつかみ、生まれて初めて一人で花屋に入って赤白の花を一本ずつ束ねてもらい、そのまま花を抱えて衆目にさらされつつ大江戸線に乗った。ちなみに買った花は、ピンクのバラと、「リシアンサス」という白い花であった。

 麻布十番の駅からほんの5分くらいのところに、ビーイングという会社のビルがあり、その1階にZARDの献花場所がある。もうあれから1週間、献花の受付最終日の午後7時だというのに大勢の人がいる。

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 外のスペースには献花台から溢れまくった大量の花束がずらりと並べられ、また多くの人々がZARDのライブのDVDに見入っていた。

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 まずはスタッフさんたちに誘導されて、花を持ったまま奥の記帳場へ。何冊もノートが並んでおり、そこで思い思いに坂井泉水へのメッセージを書くのである。とりあえず、オレが今日ここに来たのはこの記帳を行うためであった。むこうは世話をしたつもりはさらさら無いだろうが、こちらは坂井泉水さんには激しく世話になり、辛く痛い壁にぶち当たり道を見失っていた学生時代、ZARDの歌でどれだけ救われ元気づけられたことか。旅の途中で孤独と苦痛につぶされそうになった時、懐かしい曲を聴いてどれだけ励まされたことか。大量のコメントの中に埋もれてしまうほんの数行の言葉でも、それでも何かこう自分の中から坂井さんに向けてどうしても感謝の気持ちを発信したいと、なんでオレがこんなことを考えているのか実によくわからんが、しかしそういう気持ちを持った人がここに集まっているのだろう。し、この世にいない人に対してメッセージが伝わるかどうか、冷静に考えれば伝わらないのだと思う。それでも、伝わるかもしれない。なにかの拍子に坂井泉水がひょろっと天国から遊びに来て、ノートを読んでいくかもしれない。その時に、せめて彼女に感謝の気持ちを伝えたい。言葉からでなくても、言葉に込めた執念というか怨念のようなものが、雰囲気だけでも坂井さんの魂に伝わってほしいと思う。

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 死=無だということは普段はわかっている。残された人間にとっては無でなくても、科学的には死んで体が焼かれれば魂なんてものは無く、脳が消滅した時点で思いも悩みも存在も全て消えるのだ。所詮人間もキンチョールやキーボードと同じ原子の集まりの分子の集まりの単なる物質。

 て普段はわかっていても、今回はそうはいかない。なぜなら坂井泉水の肉体は消えても坂井泉水の歌声はいつまでも残っている。坂井泉水の歌声を聴くオレは、オレが生きている限り坂井泉水の存在を感じ続けるのだ。彼女は死して尚、これだけの作品を残しているわけで、これらは今後も何十年と買われ歌われ、つまり人々の中で坂井泉水が存在していくということだ。人間には自分自身の存在と、他人から見た自分の存在の、2つの存在がある。自分という1人の人間に対して存在が消えたとしても、何万、何十万というZARD以外の人間にとっては彼女はまだ生きているのだ。これだけの歌が、坂井泉水の死と共に消滅せずに残っているのは、つまり坂井泉水が死んだのは坂井泉水本人にとってだけで、彼女以外の何万というファンにとっては、坂井泉水が死んだというニュースは見たけれど、しかし坂井泉水は今までとなんら変わり無く生きているのである。

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 いかに彼女が存在し続けているかということは、こうしてファンの人々の中に入るとより実感できる。献花を終えて外の敷地でボーっと流れる歌を聴きながらたたずんでいると、どんどんどんどんひっきりなしに花を持った人たちがやって来る。ほとんどの人は1人である。はっきり言って、花を持って電車に乗るのは恥ずかしい。花を持って歩くのも恥ずかしい。ましてや男1人。しかし、今まで5千人近くの人が、今こうしていても坂井泉水さんのために多くの人がやって来る。そこまでの行動を起こさせるほどの存在感で、まだ彼女は大勢の人間の中にあり続けているのである。むしろその存在感は生前よりも大きくなっているのではないだろうか。

 果たして、この世に生まれて死んでいく人間で、こんなに見知らぬ人々から死を惜しまれる人物がどれだけいるだろう。ライブDVDを見ながら、最後には100人を超えるであろうファンの人々が一緒にZARDの曲を歌い、何人もの人が声をあげて号泣し、どこへともなく「ありがとう~!」と叫ぶ。こういう死に方をする生き方、このように死ねる生き方がつまるところ人間の価値ではないだろうか。人間の価値、それは死んだ時に何人の人間が涙を流すかによって決まると言われるが、まさに今日、その言葉は真実だと思った。家族が泣くのは当たり前。果たして、今自分が死んだ時に家族以外で涙を流してくれる人がいるだろうか? 死を惜しまれるような生き方をする。そういう生き方は多分難しい。多分努力と苦労が必要だ。オレがほんの5分で1曲を聴くその間に、「いい歌だなあ」とくつろぐ5分のその曲を作るのに、坂井さんはどれだけの時間と体と心を使ったのだろうか。フィギュアスケートを見ていてもそんなようなことをよく思う。

 単純に坂井泉水が死んだ悲しさよりも、坂井泉水がこれだけ死を惜しまれるような、見ず知らずの多くの人たちに感動を与えていたのだというそのことがわかったことへの感動、その気持ちを持てたから、今日締め切りぎりぎりになって献花に行ってよかったと思う。そして、坂井泉水さんが死んだからには、自分が死ぬことへの恐怖がずいぶん減ったような気がする。坂井さんのところへ行けると考えたら、若くして死んでみるのもいいかもしれない。

 そして、下手に別れを惜しむ場所に行ってしまったがために、悲しさは確実に倍増したのである。自ら悲しみに行かなければ悲しみはフェードアウトに向かうのに……。一番下の動画はミュージックステーション5回目(最後)の出演時の映像だが、ぎこちない踊り(?)と、どんなには、なー、れーてても、の「なー」の苦しそうなところが本当にかわいい。見れば見るほど、どんどん悲しくなってくる。もうダメだ。悲しい。

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