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えらい間が空いた

 旅行中、中国産の食材を5ヶ月間ひたすら食い続けた作者です。時々回鍋肉によ~く炒められた昆虫の足(ゴキ的な)が入っているのを発見し、取り除いて何も見なかったことにし、食事を淡々と続けた作者です。

 なんでも中国産のパンは洗剤を混ぜて色つやを出し、もやしにも漂白剤を使いうなぎや歯磨き粉やカップラーメンやペットフードや風邪薬にも毒が混入、下水溝に溜まった油で作られたラードからはDDTが検出されるという、その不衛生というか殺人ぶりが恐ろしいというよりその食環境でも12億人も生き残っている中国人の丈夫さが恐ろしい。なんか文法がおかしくなったが、丈夫というより、むしろ洗剤や漂白剤の入ったパンを食べて胃を洗浄しているからいつも健康なのではないだろうか。そういえば、オレもまた最近どんどん白い肌になっているが、これは部屋に閉じこもっているからなどではなく中国で食べた漂白剤のせいだと思う。毒も食べたと思うよ。知らず知らずのうちに。今思えば、あああの時食べた麻婆豆腐、あれは毒の味がしたなあとしみじみ振り返ることもある。

 とはいえ、アフリカからアジアを旅して最後に中国に辿り着いた時に食べる中華料理というのは、致死量の劇薬が入っていても許せちゃうくらい感動的に上手い。幸せを追い求める時に、もしかしたらこういうことが幸せなんじゃないのかなあ、と言えることがあるとしたら、それは中華料理を食う時だ。中国での一人旅はもう本気で勘弁して欲しいが、町でただ1人の外人になって裏路地の食堂にフラっと入りご飯をおかわりしながら麻婆茄子をひたすら食いまくるというあの経験、あんな全身が大喜びし打ち震えるような食事というのは日本ではなかなか味わえないと思う。というか同じ予算ではなかなか味わえないと思う。多分叙々苑で焼肉を食えばそのくらいの感動のビッグウェーブはやってくると思うが、手取りで月給22万円の(涙)派遣社員にとってはそんな機会はなかなか無いだろう。まあ、別に他に使うとこは無いんだけどさあ……

 そういえば、毒と言われてふと一休さんの水あめの話や、狂言の附子(ブス)を思い出した。中国の食材に毒が入っている毒が入っていると盛んにはやし立てているのは、もしかしたらあまりにも美味すぎる中華料理をオレたちに食わせないためのウソではないのか?? 和尚さんが小坊主たちに水あめのことを「これは毒だから決して食べてはならぬぞ」と言ったのと同じことで、毒毒言っている人は、ニュースをすぐ信じてしまうけなげな一般庶民を騙して自分が中華料理を独り占めしようとしているのではないだろうか??

 かくなるうえは、和尚さんの大事な壺を割った一休さんを見習って、オレも胡錦涛の悪口などをブログに書いて「すいません、ひどいことを書いてしまいました。死んでおわびします!!」といってとんちをきかせ、毒と言われている食材を死ぬためという理由をつけて食いまくれば、望み通り本当に死ぬだろう。

 ちなみにこのあいだロイヤルホストに夜1人でパフェを食べに行った。「1人です」って人差し指を立てながら店員さんに示し、窓際のテーブル席を与えられてしみじみとメニューを眺め、若い女のウェイトレスさんを呼んでホットファッジサンデーをください」と叫んだのである。そして何杯も水をおかわりしながらてっぺんのさくらんぼから責めて行き、チョコレートソースを満遍なくアイスにかけながら孤独に食べたのさ。「ああ、きっと今頃裏で店員さん達が噂してるんだろうな。『あいつさ~、1人で来てホットファッジサンデー頼んでるんだけど。まじありえなくない?とかいって」などとずーっと空想しながら。おかげで精神の開放が行えずに最大限にパフェの味を楽しむことができなかった。心からの満足は得られなかった。でも、オレは行く。これからも1人で。いいじゃないか。男が1人でホットファッジサンデーを食べに行っちゃいけないのかよ!!! ロイヤルホストの注意書きとかにも「男性が1人でサンデーを食べに来るのはお控えください」とは書いてないぞ!! 

 いきなりパフェの話になったが、つまりこういうことだ。月給22万円といえども、ニート時代に比べたら毎月22万円も多く稼いでいるのである。だから、パフェだって食べられるのである。毎晩外食、ココイチと吉野家と天下一品とファーストキッチンを順繰りに訪れるという20代に果たせなかった夢を、今では現実のものとしているのである。

 もう何の話してたか忘れた。中国のメシの話で……まあいいや。たいして面白いこと書いてたわけじゃないので(号泣)、いきなり終わることにする。宮崎県知事に敬意を表して。

負けないで

ふとした瞬間に 目と目があった様(よ)な

幸せのときめき 覚えているでしょ

パステルカラーの季節に恋した

あの頃の 輝いてる あなたでいてね

負けないで もう少し

最後まで あきらめないで

どんなに離れてても 心はそばにいるわ

追いかけて遥かな夢を

 ……これは、ZARDの「負けないで」の歌詞である。が、実際の歌詞とは少し違っている。ふとした瞬間に、「視線がぶつかる」の部分が「目と目があった様(よ)な」に、「あの日の様に 輝いてる」が「あの頃の 輝いてる」に、「最後まで走り抜けて」が「最後まであきらめないで」になっている。

 なっているというより、当初の歌詞はこのようなものだったそうだ。これらの訂正部分が確認できる坂井泉水本人の手書き原稿の写真が、フライデーに載っていた。ので思わず買ってしまい、「リア・ディゾン『封印された美乳のリア』」や「後藤理沙『ふぞろいな性愛』現場」の袋とじを丁寧に開いて中を見てみたら特に興奮するようなものはなくがっかりしたが、しかし坂井泉水直筆の「負けないで」の歌詞は袋とじにはなっていなかったのに大変興奮した。こうやってあの負けないでが出来ていったんだね……

 ちなみに「ど迫力袋とじカラー8P 青山菜々『国民的巨乳』原寸大」は開いていない。Iカップのヌードアイドル、略してヌードル界(ラーメンかよ)の「最終兵器」らしいが、そんなものを見たいがためにオレはこの雑誌を買ったのではない。坂井泉水さんの秘蔵写真や手書きの原稿が掲載されている同じ雑誌でそんなふしだらで不謹慎なものを見るのはさすがにオレがオレを許さん。なのでこの袋とじだけは今後も絶対に開けることはないだろう。いつまでも袋とじのまま、開かずの袋とじになってもらおうか。このヌード写真め。

 てそんなことはどうでもいんだよこのバカヤロウめ!!

 さて、実際に原稿の写真を見ながら歌ってみると、訂正前の歌詞だと実に歌い辛いことに気付く。

http://www.youtube.com/watch?v=Eh4ofCzaGj4&mode=related&search=

 ふとした瞬間に~目と目があった様(よ)な~ ……いや~、ここはやっぱり視線がぶつかるでしょ。だって目と目があったよな~じゃ文字数があわないじゃん。

 あの頃の 輝いてる あなた~でいてね~ ……いや~、ここも絶対「あの頃の」じゃなくて「あの日の様に」でしょう。あの頃の、じゃ文字数が足りないじゃん。

 負けないで もう少し 最後まであきらめないで ……いや~、これも「あきらめないで」じゃなくて「走り抜けて」でしょう。絶対走り抜けてだよ。あきらめないでじゃ文字数が多くてやっぱりメロディーにしっくりあわないよね。

 と、こうして負けないでの歌詞が試行錯誤を重ねて出来上がった様子は、とてもよくわかるし励まされる。しかし、ここで問題が出てきた。最初にフライデーを立ち読みしてから、また今日買ってからなおさら、「いやー、やっぱりここは『目と目があった様な』じゃなくて『視線がぶつかる』だよね。だって 目と目があった様な~♪ じゃ文字数が……」と何度も何度も実際に歌いながら考えすぎたおかげで、今オレが頭の中で「負けないで」を歌おうとすると、自然に訂正前の歌詞で歌ってしまうのである!! 「あのこ、ろ、の~ かがやい~てる~ あなた~でい~てね~♪」と本来の方ではない、しっくりこない方で歌ってしまうのである!!! さ~い~ごまであきらめな~いで~♪ と違う歌詞でメロディーを口ずさんでしまうのである!!

 こんなのはいやだ。5月28日から毎日ZARDの曲を脳内で流しているのに、負けないでが急にしっくりこない歌になってしまった。ふとした瞬間に~目と目があったよな~ ってそんなの「負けないで」じゃない!! 替え歌だ!! 負けないでの替え歌だ!!

 とはいえ、そのしっくりこない方も、というか、そもそもそちらの方こそがオリジナルな坂井泉水の作詞なんだよね……。途中で訂正されなかったらそのしっくりこない方が本来の負けないでの歌詞になっていたんだよね。そしたら、「ふとした瞬間に 視線がぶつかる」の方を後から歌ってみたら逆に「なに『視線がぶつかる』って!! そこはやっぱり『目と目があった様な~』でしょう!! 視線がぶつかるじゃあ文字数が違ってるし全然しっくりこないよねー。負けないでの魅力が損なわれるよねー。『視線がぶつかる』に変えないでよかったねえ。やっぱりここは『目と目があった様な』だよね~!」というふうに、反対にそっちがしっくりこないとこのようにブログに書かれていたに違いない。

 ようは、どっちになっても正式ではない方はしっくりこなく感じるのである、なんてことはなくやっぱり「視線がぶつかる」の方がしっくりくるよね。今の方がいいんだよ絶対。今の負けないでがしっくりきてるんだから。

 このフライデーに載ってる生原稿がオークションにかけられたら300万円くらい余裕で超えるだろうな……。27日の音楽葬で展示されるようだから、ぜひ見に行きたい。そしてその歌詞に、その1枚の原稿に込められた坂井泉水の思いを時を越えて感じたい。あなたを感じていたい。このままずっと忘れたくない。今が想い出に変わっても。かけがえのないもの、それはあなたよ。君がいない。

 せ~つなく~て~ 出しそびれたて~が~み~ い~つもとお~くからき~みを~思い~♪ というアルバム「揺れる想い」の中の「season」という曲がすご~~~~~~く好きな曲です。号泣します。1人1個の命を持っているのなら、僕の命を坂井さんにあげたかったです。もういらないや。

ZARD続き

※写真のサイズをかなり大きくしたので、各画像をクリックしてみてください。

 坂井泉水さんの転落現場の写真を見てみると、やはり自殺ではなかったようだ。普通に立っている人間の頭のほんの少し上、3mも無い高さに手すりがある。およそ自殺しようとする人間が飛ぶ高さではない。むしろ、「このくらいの高さなら落ちてもたいしたことないだろう」と判断して手すりに腰掛けようと思える高さだ。多分、うまくバランスが取れなくて、後ろ向きに落ちてしまったのだろう。

 しかし実際にはもっと高いところから飛び降りたという話もあるし、よくわからない。ただなんとなくわかることは、いずれにせよ癌が転移していた坂井さんはそう長くはなかっただろうということだ。

 それでも、何故最初に癌が発見された時に一般に公開しなかったのかと、それだけが悔やまれる。なぜ彼女は密かに戦うことを選んだのだろうか。一方では彼女の死は正しく美しかったとも思い、しかしそれでもやはりあれ以来ZARDの曲を聴く度に「なんで死んじゃったんだよーーー!!!!」と悲しみに打ち震える自分がいる。時に、見ず知らずの人からの励ましというのは、家族や友人からの言葉よりもよっぽど勇気付けられることがあるのだ。

 今日仕事中に2chを見ていたところ(仕事中に2chを見てはいけません)、献花台の設置が今日の8時までだということが書いてあった。うーむ。

 帰宅するやいなや、オレはipodを引っつかみ、生まれて初めて一人で花屋に入って赤白の花を一本ずつ束ねてもらい、そのまま花を抱えて衆目にさらされつつ大江戸線に乗った。ちなみに買った花は、ピンクのバラと、「リシアンサス」という白い花であった。

 麻布十番の駅からほんの5分くらいのところに、ビーイングという会社のビルがあり、その1階にZARDの献花場所がある。もうあれから1週間、献花の受付最終日の午後7時だというのに大勢の人がいる。

Zard5

 外のスペースには献花台から溢れまくった大量の花束がずらりと並べられ、また多くの人々がZARDのライブのDVDに見入っていた。

Zard4

 まずはスタッフさんたちに誘導されて、花を持ったまま奥の記帳場へ。何冊もノートが並んでおり、そこで思い思いに坂井泉水へのメッセージを書くのである。とりあえず、オレが今日ここに来たのはこの記帳を行うためであった。むこうは世話をしたつもりはさらさら無いだろうが、こちらは坂井泉水さんには激しく世話になり、辛く痛い壁にぶち当たり道を見失っていた学生時代、ZARDの歌でどれだけ救われ元気づけられたことか。旅の途中で孤独と苦痛につぶされそうになった時、懐かしい曲を聴いてどれだけ励まされたことか。大量のコメントの中に埋もれてしまうほんの数行の言葉でも、それでも何かこう自分の中から坂井さんに向けてどうしても感謝の気持ちを発信したいと、なんでオレがこんなことを考えているのか実によくわからんが、しかしそういう気持ちを持った人がここに集まっているのだろう。し、この世にいない人に対してメッセージが伝わるかどうか、冷静に考えれば伝わらないのだと思う。それでも、伝わるかもしれない。なにかの拍子に坂井泉水がひょろっと天国から遊びに来て、ノートを読んでいくかもしれない。その時に、せめて彼女に感謝の気持ちを伝えたい。言葉からでなくても、言葉に込めた執念というか怨念のようなものが、雰囲気だけでも坂井さんの魂に伝わってほしいと思う。

Zard2

 死=無だということは普段はわかっている。残された人間にとっては無でなくても、科学的には死んで体が焼かれれば魂なんてものは無く、脳が消滅した時点で思いも悩みも存在も全て消えるのだ。所詮人間もキンチョールやキーボードと同じ原子の集まりの分子の集まりの単なる物質。

 て普段はわかっていても、今回はそうはいかない。なぜなら坂井泉水の肉体は消えても坂井泉水の歌声はいつまでも残っている。坂井泉水の歌声を聴くオレは、オレが生きている限り坂井泉水の存在を感じ続けるのだ。彼女は死して尚、これだけの作品を残しているわけで、これらは今後も何十年と買われ歌われ、つまり人々の中で坂井泉水が存在していくということだ。人間には自分自身の存在と、他人から見た自分の存在の、2つの存在がある。自分という1人の人間に対して存在が消えたとしても、何万、何十万というZARD以外の人間にとっては彼女はまだ生きているのだ。これだけの歌が、坂井泉水の死と共に消滅せずに残っているのは、つまり坂井泉水が死んだのは坂井泉水本人にとってだけで、彼女以外の何万というファンにとっては、坂井泉水が死んだというニュースは見たけれど、しかし坂井泉水は今までとなんら変わり無く生きているのである。

Zard1

 いかに彼女が存在し続けているかということは、こうしてファンの人々の中に入るとより実感できる。献花を終えて外の敷地でボーっと流れる歌を聴きながらたたずんでいると、どんどんどんどんひっきりなしに花を持った人たちがやって来る。ほとんどの人は1人である。はっきり言って、花を持って電車に乗るのは恥ずかしい。花を持って歩くのも恥ずかしい。ましてや男1人。しかし、今まで5千人近くの人が、今こうしていても坂井泉水さんのために多くの人がやって来る。そこまでの行動を起こさせるほどの存在感で、まだ彼女は大勢の人間の中にあり続けているのである。むしろその存在感は生前よりも大きくなっているのではないだろうか。

 果たして、この世に生まれて死んでいく人間で、こんなに見知らぬ人々から死を惜しまれる人物がどれだけいるだろう。ライブDVDを見ながら、最後には100人を超えるであろうファンの人々が一緒にZARDの曲を歌い、何人もの人が声をあげて号泣し、どこへともなく「ありがとう~!」と叫ぶ。こういう死に方をする生き方、このように死ねる生き方がつまるところ人間の価値ではないだろうか。人間の価値、それは死んだ時に何人の人間が涙を流すかによって決まると言われるが、まさに今日、その言葉は真実だと思った。家族が泣くのは当たり前。果たして、今自分が死んだ時に家族以外で涙を流してくれる人がいるだろうか? 死を惜しまれるような生き方をする。そういう生き方は多分難しい。多分努力と苦労が必要だ。オレがほんの5分で1曲を聴くその間に、「いい歌だなあ」とくつろぐ5分のその曲を作るのに、坂井さんはどれだけの時間と体と心を使ったのだろうか。フィギュアスケートを見ていてもそんなようなことをよく思う。

 単純に坂井泉水が死んだ悲しさよりも、坂井泉水がこれだけ死を惜しまれるような、見ず知らずの多くの人たちに感動を与えていたのだというそのことがわかったことへの感動、その気持ちを持てたから、今日締め切りぎりぎりになって献花に行ってよかったと思う。そして、坂井泉水さんが死んだからには、自分が死ぬことへの恐怖がずいぶん減ったような気がする。坂井さんのところへ行けると考えたら、若くして死んでみるのもいいかもしれない。

 そして、下手に別れを惜しむ場所に行ってしまったがために、悲しさは確実に倍増したのである。自ら悲しみに行かなければ悲しみはフェードアウトに向かうのに……。一番下の動画はミュージックステーション5回目(最後)の出演時の映像だが、ぎこちない踊り(?)と、どんなには、なー、れーてても、の「なー」の苦しそうなところが本当にかわいい。見れば見るほど、どんどん悲しくなってくる。もうダメだ。悲しい。

Zard3

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